神無月がゆく
大地の楽器である(と勝手に僕が思っている)ピアノと宇宙の楽器である(と、これまた勝手に僕が思っている)チェロが織り成す「あまりに人間的な」音楽、ブラームスのチェロ・ソナタ。
同時代に生きたワーグナーやブルックナーの音楽を聴くと人間とはかけ離れた遠大な「宇宙的規模」の創造主を感じさせるのだが、ブラームスとなると全く逆の性質で、内へ内へと入り込んでいくミクロ・コスモスの不発弾のような印象を僕は感じる。芸術家に限らずなのだが、時代や地域が同じとはいえ、人間一人一人の持っている役割やエネルギーはこうも違うのだということを再認識させられるのだ。
ブラームスの音楽は渋い、といつか書いたと記憶する。彼の音楽は「ネクラ」の音楽だ、とある音楽評論家は語っている。そして、若い頃、「ネクラ」な僕でも受け付け難い「イジイジ」感を感じたこともまた事実なのである。
ドストエフスキーの最高傑作
昨日から弟夫婦が子供連れで東京ディズニー・リゾートを訪れているので昼間に舞浜で落ち合い、
今日は第9回「早わかり古典音楽講座~ワーグナー:愛による救済」だった。報告は後日に譲るとして、まずは反省点。合計14時間にも及ぶ楽劇の全貌を3時間でまとめて話そうとしたこと自体が少々無理あり。しかも、オペラそのものを題材にするのか、ワーグナーの思想をテーマにするのかにより内容が当然違ってくるはずなのだが、その辺を一緒くたにしてしまったものだから正直視点がぼやけてしまったところが一番の問題だったか・・・。
外は生憎の雨。せっかくの満月が拝めないのは残念だ。
最後の最後、土壇場でとある企画が頓挫した。また一から出直し。というより、世の中そんなに簡単にコトが運ぶことは稀で、山あり谷あり、壁にぶつかって、方法を変え、行き着くものなのだから、とにかく諦めず粘ることだ。「天気を見て、農作業をしている人々に直に聞いてみて」、「自然の流れ」に任せるのがベストである。とはいえ、「聞き回る」という行動は常に起こさなければならない。
新宿区角筈区民ホールでの「高須博ピアノ・リサイタル~The Art of Transcription」に行って来た。有名なオペラからの抜粋やオーケストラ曲のピアノ編曲版ばかりを集めたとても洒落たコンサートであった。まだ録音機器の無かった時代、一般大衆がオペラや管弦楽曲を日常的に聴くにはピアノへの編曲という方法しかなかった。よって、当時の作曲家は競って有名楽曲をピアノや室内楽に編曲しているのだが、中でも、引く手数多、あちこちでもてはやされたのがフランツ・リスト。とはいえ、今回のプログラムにはリスト編曲のものは登場しない。第1曲目の「トラヴィアータ・ファンタジー」からラストの「火の鳥」抜粋まで息をもつかせぬ超絶技巧の嵐。聴いてて、手に汗握る連続でこんなに興奮して感動したリサイタルは久々であった。楽曲そのものは非常にポピュラーなものが多かったので、2時間弱全く飽きさせないのもよし。ある意味、ハイドシェックのリサイタルを凌ぐ何かがある、と思わせるプログラム構成の妙味。そして、ほぼ休みなく弾き続ける彼の肉体の強靭さには舌を巻く。とにかく一聴もの。いや、こういう技巧派の演奏は聴くというより観ると言った方が正しい。2会場に空席がちらほら見えたことを考えると、もったいなくて残念で、もっとたくさんの人たちに聴かせたい、そう思った演奏会であった。
今年はラヴェルの没後70年ということもあり、知ってか知らずかあちこちで彼の音楽を聴くことが多い。ラヴェルの楽曲を特別愛着持って聴いてきたわけではないのだが、一時期バレエにはまっていた時期があったゆえ、近現代フランス音楽の中では結構お気に入りの部類の音楽であるのは間違いない。殊に「亡き王女のパヴァーヌ」という音楽が好きで、時折CDトレイに音盤を乗せて、悦に浸っている。その際、取りだすのは必ず、
ワーグナーの破天荒ぶりは並大抵のものじゃなく、借金という借金を重ね、近しい人にいろいろと迷惑をかけたという意味では最低の人間だったらしい。しかしながら、その芸術的才覚は人類史上稀にみるほど天才的で、その才能に惚れこんだバイエルン王が一生を保障するだけの資金を提供したことは有名な話である。
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